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君が消えるとき(後編)

著者:田島(文芸創作同好会)

(三)

 部屋に帰った僕は荒々しくドアを閉めた。
 さっきの光景が、まるで長年僕を苦しめる悪夢のように頭から離れない。
窶柏ツ木君が、好きなの。
 小林も嫌だった。彼女のしていることは死んだ恋人の墓の前で涙するような美しさも可憐さも一片の悲哀すら伴わない、骸骨にこびりついた腐肉をしゃぶるような卑しくて醜い行為だ。
窶萩魔キな!
 まただ。またどこかから声が聞こえる。それと同時に夏の強い日差しのような怒りが僕を焦がした。突然振りかざされた凶器の前で反射的に目を閉じ、身体を硬直させて竦んでしまうように、僕はこの不可思議なほど濃厚な怒りを前に、本能的な恐怖を感じた。必死で体内に止めようと努力をしたが、水中で開いた傷口から湧き上がる鮮血が止め処ないように、怒りはついに僕の殻を破って溢れ出て、僕を支配した。
 両手両足、頭、歯、全体重、僕は僕に与えられた全てのものを駆使して部屋中を飛び回り、目に付くもの、手に取れるもの全てを壊しまわった。カーテンを引きちぎり、テレビを床に叩きつけ、本棚に突っ込み、本を微塵に裂き、ベッドを叩き壊し……。
 肉体は荒れ狂う感情に追従する不安定な影でしかなかった。感情は肉体の束縛を引きちぎった反動をそのままに、大いに自由を謳歌した。ただ一つ、取り残された意識だけがどこかの宙を虚ろに浮遊していた。そしていつしか、意識は風船のように萎んで消えてしまった。
 ぼんやり焦点が定まると、そこには空のように見慣れた白い天井があった。身体を起こし、手の平を何度か閉じたり開いたりして、感情が肉体に収容されていることを確かめた。でもまだ油断は出来ない。暗闇から聞こえる獣の唸り声に似た気配が、まだ漂っている。
 座り直して、あらためて部屋を見回した時、僕は冷や汗のような違和感を覚えた。それは決定的すぎるからこそ僕の認識をすり抜けていたが、次第に落ち着きを取り戻した僕の意識は、あるべきはずのものが、抜け落ちてしまった現実に気がついた。
 無いのだ。何も。
 あるべきはずの、カーテンも、テレビも、本棚も、本も、ベッドさえも。いや、正しくは破壊されたそれらの残骸が、一つ残らず、消えてしまっている。破片すらない。
 頭が目の前に晒された不可解な現実の解釈を拒否している。でもその必要はないかもしれない。一人空白の中に取り残された僕は、穏やかな浮遊感に包まれていた。それは緩やかに流れる川面に浮かぶ心地よさだ。僕は再び、空を仰いで横になった。すると、頭に何かが触れた。それは一冊の文庫本、夏目漱石の『門』だった。
 あの大破壊の中を生き残ったのだろうか。完璧に、本だ。僕はそのまま、ぱらぱらと数ページ繰ってみた。崖の下の静かな暮らし。それでも、現実は不意の高波のように彼を濡らす。それは、彼が崖の下に居るからだ。
僕は『三四郎』と『それから』も読みたくなったが、どうやら二冊は消えてしまったようだ。
……青木も、消えてしまったのだろうか。
 僕はどうしてもそれを確かめたくなって、空白の部屋を出た。
(四)
 青木の住むアパートは、大通りからほんの少し入った閑静な場所にある。
 繰り返しチャイムを鳴らすが、応答は無い。もう夜も遅い。寝ているのだろうか。それとも、消えてしまったのだろうか。
 僕は諦めなかった。この目で、何も無くなった空白の部屋を確かめるまで、帰る気はない。
 仕方なく、僕は外に出てベランダへ回った。青木の部屋は一階だ。うまく行けばベランダから入れるかもしれない。
 カーテンが窓を覆っていて、ここからでは中の様子は分からない。僕は意を決して、アルミ製の柵を乗り越え、ベランダに降り立った。
 間近で見ると、窓からは一縷の光も零れていない。電気は点いていないようだ。
「青木」
 窓を叩いて呼んでみても、返事は無い。窓には鍵がかかっていた。やはり消えてしまったのかもしれない。もう帰ろうかとも思ったが、あの現実を目撃した今、このまま憶測で片付けてしまうのはどうにも中途半端な気がした。何としてでも見届けなければならない。あの出来事が単なる不可思議な怪奇現象などではなく、もはや逆らいようのない摂理の行使だということを。
 その時、僕の感覚は何かの存在を、感じ取った。それは五感で言うなら聴覚に最も近いと思う。虐げられた民衆が上げる切ない反逆の声のような存在感。それががらんどうのベランダの隅から発せられていた。それは石だった。赤ん坊の頭ほどの大きさの石。十字架を背負ったキリストがその重みに耐えかねて蹲ったような形をしている。持ってみると、思いの他重たい。そういえば、近頃こんな石も見なくなった。何故、こんなものがあるのだろう。
 石を持ったまま、僕は僕と青木の世界を隔てる一枚のガラスを見つめた。この石で窓ガラスを割って中に入ろうか。この考えは現状を打ち破る妙案とは言い難いかもしれないが、このままここで無駄に時間を過ごすよりはマシだ。僕は腹を据えた。右手の石を振り上げ、思い切り窓ガラスに叩きつけた。
 窓ガラスは容易く割れた。僕は割れたガラスで切らないように慎重に腕を突っ込み、手探りで鍵を開けた。僕は靴のまま部屋に踏み込んだ。
 室内は暗かったが、月明かりと路上の電灯の明かりが差し込んで、かろうじてものの輪郭が掴めるだけの明るさはあったが、掴むべき輪郭はほとんどなかった。テレビも、本も、冷蔵庫も。ただ、奥にベッドが一つだけあった。
 青木は、居た。布団も掛けずにベッドで横になっている。
 社会の摂理は青木の存在を許していた。ただ、自然の摂理は青木を許さなかった。青木は、死んでいた。土気色の布が青木の骨格に張り付いている、それほど青木の身体は痩せ細っていた。餓死、したのか。
 枕元に一枚のルーズリーフがあった。そこには震える字で、こう書かれていた。
窶薄lは絶望したわけでも狂ったわけでもない。ただ世界の現実を知っただけだ。だから全てを遮断して、新しい世界を作った。たった八畳の小さな小さな世界だけど、ここには破壊も戦争も暴力も差別もない。ただゆっくりと、時間だけが流れる、本当に平和な世界だ。
 僕は崩れるように座り込んだ。そして泣いた。子供のように泣いた。僕の泣き声を誰かに聞いてほしい。青木は、ここに居るんだ。

挿絵:美術研究部さん


 

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