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投手の微笑み(中編)

著者:智東 与志文

 球場に入るのは、久しぶりだった。野球部を退いた後は一切近寄らなかったので、十年ぶりのことなるのは間違いない。
入り口で千円を払い、パンフレットのようなものをもらい門をくぐる。斜め上から太陽の日差しが降り注ぐ階段を、俯き加減に登る。しばらくすると、突然視界が大きく開けた。顔を上げた典雄の目に飛び込んできたのは、足を踏み入れないことには絶対分からない、球場の巨大さだった。ホームベース裏に張られたバックネット。ナイター設備。草で覆われた外野スタンド。そして整備されたダイヤモンド。背景の景色は、遠くへと飛び去った。
「なんとも懐かしい光景だな」
 典雄は内野席に目を移す。意外なことに、結構な数の観客が入っている。全部で二千人ほどだろうか。応援用の旗を持った人など、熱心なファンも多そうだ。応援団もいる。典雄は、三塁側のベンチ上、最前列に腰掛けた。この下には、きっと足立もいるはずだ。パンフレットにも彼の名前は載っている。典雄は、少し緊張した。
 午後一時、試合はプレイボールの声がかかり、試合開始。
 先行は、足立のチームだった。先頭打者は、三球目のカーブを引っかけて、ショートゴロに倒れた。スタンドから、最初の歓声が上がる。典雄は、グラウンドやベンチを見渡しながら、若い選手が多いな、と思った。ほとんどが大学生以下の選手だろう。
 試合は、序盤から一方的な展開となった。先発投手が初回を三者凡退で片付けると、その裏、足立のチームは簡単に二点を先制した。ランナーを二人おいた状態で、外野手でさえ顔を覆いそりそうな弾丸ライナーが飛び出したのだ。その後も彼のチームの攻撃は続き、五回までに七点を奪っていた。彼らが受けた反撃は、ソロホームランによる一点のみだった。観客たちは、早くも決定した試合の流れに応援ムードを捨て、行楽ムードに切りかえている。
 ところが六回裏、足立のチームの投手の調子がおかしくなる。ストライクがまるで入らなくなってしまったのだ。瞬く間にランナーがたまり、点を奪われる。三点差にまで詰めよられ、さらにランナー二塁。投手は、マウンド上に棒立ちになった。どうやら、もう投げるのが嫌らしい。
 その時、ベンチから一人の男が駆け足で出てきた。やや角ばった背中がマウンドへと向かっていく。どうやら投手コーチらしい。とそこで、典雄は、あっと小さな声を漏らした。予感がしたのだ。あの背中には、確かに見覚えがある。自ずと前に乗り出し、ずいぶんと衰えた目で、男を見据える。背番号を確認しようとしたが、影に入ったせいで見えない。
 マウンド上には、小さな輪ができている。なにやら相談しているようにも見えるし、ただ単に談笑しているだけにも見える。やがて、輪が解け、角ばった背中が振り向いた。典雄にも顔が見える……。
「間違いない……」
 多少やつれているが、今そこにいる男は、確かに足立光宏だった。球場にいる時の、少し強張ったような表情や走り方も、彼のものに違いない。観客たちの意識は、再開される試合へと向かっていたが、典雄は彼を観察し続けていた。
「そうか、足立。本当に野球を続けていたのか」
 その時、駆け足でベンチにもどる足立が、ふと視線を上げた。視線が合う。瞬間、足立の目は見開かれた。
「監督……ですよね?」
 典雄は、ネット越しに小さく頷いた。

 

 挿絵:美術研究部さん

 

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