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小雨坊

著者:小柳優斗


  雨は治まることがなかった。文作は今、倒れた大木の隙間に身を埋め、雨を凌いでいる。夕暮れ時を過ぎた空はあっという間に暗くなる。その前に一夜の宿を見つけることが出来て良かったと、文作は思っていた。もしかしたら、治兵衛もこうして同じ場所で寝ていたのかも知れないなと、ふとそんな気持ちを抱いたりもする。文作は、静かに目を閉じた。
  目を閉じると、様々なことが浮かんでくる。治兵衛との少年時代、次第に変わってゆくお互いの人生に気づいた時の動揺、治兵衛大峰山へ行ったきり戻ってこないことを知った時の胸を突き刺すような悲しみ、自身も大峰山へ行くと言った時の、周囲の反対の中で確かに見た、嫁の決意に満ちた目……それら一つ一つが、文作の頭の中を駆け巡っていた。立った一人暗い山の中で雨を凌ぐ今の彼にとっては、村での友との思い出、家族の顔を思うことこそが、何よりの慰めだったのである。思い出に浸ることで文作は闇の恐怖を忘れ、寒さを忘れ、安らぎを見出せた。文作の耳には今、振り続ける雨の音に混じって、楽しかった時代の友の笑い声が、川のせせらぎの音が、鳥の歌が、聞こえているのかも知れない。
  思わず、彼は旧友に呼びかけていた。それは、ただ慕わしい友人を想っての言葉だった。
「治兵衛……お前一体、何処に居やがるんだ」
  すると、まるで文作の言葉に返答するように、樹の隙間の外から声がした。
「おう、少し宜しいかな」
  まさか返ってくるとは思わなかった言葉に、文作は驚き目を見開いた。そして、隙間から顔を出す。目に飛び込んできたのは、藍色の着物だった。彼の目の前に、男が立っていたのである。
  網代笠を被っている為、男の顔はよく見えなかったが、彼が藍染の衣を纏っていることだけは分かった。如何やら、ずぶ濡れの様子である。雨に晒されているのに中に入って来ようとはせず、樹の前に突っ立っているばかりだ。その姿、そして重々しい声から、文作は眼の前の男が誰なのか悟った。僧侶――それも、托鉢僧らしい。
  文作は躊躇いがちに、何か? と問うた。僧侶は文作を見ながら重々しく口を開く。
「拙僧は二日ほど前から峰入りしているのだが、昨日迂闊にも食料を落としてしまってな。或いは寝ている時に奪われたのかも知れぬが。兎に角此の侭では餓死するのが関の山だと思うて、誰かに助けて貰おうと探していると、運良く貴方の声が聞こえたのでやって来た次第なのだ。申し訳ないのだが、粟でも黍でも何でも良い。少しばかり、分けては下さらぬか」
  文作は一も二もなく頷いた。餓えようとしている人を見捨てることなど、彼には考えられない。
「それは御困りで御座いましょう。粟程度しか御座いませぬが、お好きなだけお取り下さいませ」
  そう言って、山盛りの粟が詰まった袋を一つ、僧侶に渡した。それほど多く貰えると思っていなかったらしく、僧は感激した様子で、地に頭を付けながら感謝の言葉を滔々と述べだした。
「忝き御言葉。御礼の仕様も御座いませぬ。何とも有難い有難い……」
  文作は軽く首を振り、猶も頭を下げようとする僧を押し留めて、優しく言う。
「ご遠慮くださいますな。実は、私がこの山に来たのはある人を捜すためで御座いましてな。修行に来たわけでは有りませぬ。高尚な心がけを持つ方をむざむざと死なしてしまえば、末代までの恥となりましょう。私の行いもまた功徳となるならば、お礼を申すのは私の方で御座います」
「人探し? 貴方は人を探しにこの山に入られたのか。誰をお探しか」
  土下座を文作に止められた托鉢僧はゆらりと立ち上がり、粟の袋を懐に入れながら問うた。
「治兵衛と言う貴方と同じ僧侶で御座る。私の旧友で、五年前から行方が知れぬので御座います」
「――何、治兵衛か」
  僧侶はその名を口の中で反復すると、少し黙した。その姿が少し寂しそうに、文作には見えた。
「御坊、何かご存じか」
  僧侶は答える。しかし彼の言葉は、文作の期待していたものではなかった。
「此処より南に半時ほど歩くと森を抜け、広い切岸に出る。景色の良い所じゃ。明日の朝、是非行ってみなされ」
  文作は何が何だか分からなかったが、一応礼を言って頭を下げた。僧はにこりと笑い、
「礼を言うのは私の方。貴方と逢えて本当に良かった」
  そして文作をじっと見つめる。その眼がとても温かいように、文作には感じられた。
「きっと、お友達もそう思うておる筈」
  雨の中僧侶がにこりと笑ったように、文作には思えた。

  翌日も天気は回復せず、小雨がしつこく降り注いでいた。しかし、歩くのに障害にならぬ程度である。文作は冷たい雨を浴びながらも、暁七つ時から黙々と山の中を歩いていた。目指すは僧侶に教えられた切岸。其処に行けば友が見つかる、そんな生易しいことを思っていたわけではない。薦められた以上一応は見ておこう、そんな思いがあるだけであった。半時ほどで着くということなので、文作の足ならすぐに行ける距離だ。
  昨日の藍染衣の僧が言っていたことは本当だった。南に只管進み続けると、森から抜け出で、野原のように草の茂る切岸に出る。それほど広くはないが、眼前に広がる景色は正に景観。その美しさには、文作も思わず驚愕の声を上げた。薄く棚引く遠くの雲の下に、米粒ほどの大きさの家々が並んでいるのが見える。文作は端から端まで自分の目の届く範囲の景色を順々に見ていった。すると驚いたことに、東の遥か彼方には彼と治兵衛の住む村――彼らの故郷がはっきりと見えているではないか。文作の心は自然と弾み、胸中には温かい懐かしさが込み上げて来た。
  村の見える方向へ、思わず一歩を踏み出しかけた文作。しかしすぐに、足元に転がっていた小さな石に躓いた。痛みに一歩を踏み出したまま立ち止まり、顰め面をして下を見る。そして目を見開かせた。
  石ではない。彼の足元には、完全に白骨化した頭が転がっていたのである。
  見ると、頭蓋だけではなかった。行き倒れであることを示すように、腕を上にあげたままの状態で骨が行儀よく並んでいる。そしてその骨は衣類を身にまとっていた。昨夜の僧と同じ、藍染の衣である。
  文作は屈み込んで遺骸の衣を手に取った。それを裏返したり、彼方此方を探ったりしているうちに。彼の眼から大粒の涙が溢れて来た。
  五年前治兵衛が出立する時、文作は名残惜しくなるからという理由で自身は見送らず、代わりに母親に見送らせていた。その際文作は母に、ある物を渡すように頼んだのである。小さなお守り。近くの神社で配られていたものを、その頃の文作が見よう見まねで作った物だった。それが、この白骨の首に掛けられているのだ。間違いはない――文作は頷く。此処で横たわる遺体こそ、旧友治兵衛のものなのだ。
  涙に濡れた頬に治兵衛の頭蓋を押し当て、文作は眼を閉じた。そして、再び藍の衣に目をやる。昨日現れた僧が治兵衛であったことも、彼の遺体を目にして悟ったのである。はるばる自分を探しに来てくれた文作に、最後のあいさつをする為に、治兵衛は現れたのだろう。中に入ってこようとしなかった理由も、治兵衛の名を出した時、寂しそうな顔をしたその訳も、全て説明がつく。何よりの証拠に、昨日自分が僧に手渡した粟の袋が、遺体の掌にしっかりと乗っかっているのだから――。
  文作は何度も何度も、治兵衛の名を呼んだ。勿論、骨は答えない。何の返事も返ってくる筈がなかった。しかしその代わりに――
  ……ちりん。
  文作は背後に鈴の音を聴いた。さっと振り返る。切岸に面した森の奥、そこから文作は自分を見つめる視線に気付いた。その視線に籠る、昨日と同じ温かさを感じるまでに、時間は掛からなかった。
  治兵衛がいるのだ、と文作は思った。
  やがて目が慣れるに従い、治兵衛の姿が明瞭に見えてきた。鈴を鳴らし続ける治兵衛は小雨の中、藍染の托鉢衣を身に纏い、陽炎の如く佇んでいる。文作も治兵衛を見つめ返した。そして、涙に濡れた目でそっと治兵衛に笑いかけた。
「治兵衛……。お前は幸せなんだな。お前はいつも故郷を、俺達を見守っていたのだな」
  治兵衛もにっこりと笑った。何か呟いているようなのだが、文作には聞こえない。しかし彼には、治兵衛の言っている事の想像が付いた。
  ……ちりん。
  治兵衛が鈴を鳴らす。そして、一礼すると文作に背を向けた。突っ立ったままなのに、その姿は霞み始め、見えなくなっていく。最後には文作の見ている前で、治兵衛は掻き消すように消えてしまったのであった。
  文作は空を仰いだ。旅の疲労感と一緒に、言葉に出来ない満足感がこみ上げていた。治兵衛は自分と共にいつもいる。いつもこの場所から、俺達を見ている――文作はそう思い、にこりと笑った。彼は歩き出し、治兵衛の眠る切岸を後にする。
  柔らかい日差しと共に振り続ける小雨が今、とても愛おしかった。光の絹のような雨は、この山で小雨坊となって生きていく治兵衛を祝福しているように、文作には思えたからであった。

 

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