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2019.12.19

2019年12月3日(火)大角宗純さんトークイベントレポート

ニュース

ブックセンター「ふらっと」では、店内で様々な方にお越しいただき、本を通じたトークイベントを開催しています。今回は、立命館のOBでもある臨済宗相国寺派僧侶・大角宗純さんによる「宗教をバカにしていた僕が、サラリーマン家庭から出家した」というテーマのトークイベントが行われました。大角さんの本はこれから出版が実現するのですが、学生時代の経験や、なぜ書籍化をしたいのかなどを語ってくださいました。参加者はおよそ10名様でしたが、皆さん、真剣に耳を傾けていらっしゃいました。詳しいお話の内容の抜粋は、ぜひ以下からご覧ください。

こんにちは、大角宗純と申します。私はこの大学の卒業生でありまして、その縁もあってこちらでのトークイベントのお声かけをいただけました。心から光栄に感じております。
そしてまた光栄といえば、おととい東京にて行われました「出版甲子園決勝大会」という、出版したい企画を持つ全国の学生たちによる書籍化を目指すプレゼン大会の決勝にて、グランプリをいただくことができました。なぜこのような自慢話を冒頭に持ってきたかと言えば、それは単に自慢したいからでもありますが、本日のお話を、そこで用いたスライドを使って進めていきたいとも思うからです。決勝では、プレゼン・質疑応答ともに5分間しかなかったため、話せる内容がおのずとかなり限定されます。しかしここでは、時間をたっぷりいただいているので、スライドの内容を一つ一つある程度深く掘り下げてお話していきたいと思っています。
まず、私が書籍化したい企画のタイトルは「他者に向かって」でありまして、副タイトルは「『無我』とはどういうことか」です。これらで私は「『他者へ向かう』ということが、『無我とはどういうことか』を語る上では欠かせない」ということが言いたいのです。巷には仏教書が溢れていますが、そのようななかでどうして私が仏教書を出したいかといえば、「他者とのかかわり合い」に明確に焦点を定めながら「無我とはどういうことか」を語る仏教書を私は知らないからです。どうってことないタイトルのように見えますが、実はこのなかにも私の思いが詰まっています。
出版甲子園の私以外のファイナリストの皆様が出された企画タイトルは「『セックスしないと出られない部屋』に閉じ込められてしまったので脱出方法をはじめからじっくり考察してみた」や「死亡フラグが立って『から』読む本」など、どれも非常に面白そうなものばかりで、正直少し焦りました。だって、私のだけクソつまんなさそうなんですもん(笑)。「タイトルを変えたほうがいいのかなぁ」と悩んだりもしたのですが、あんなに面白そうなタイトルを思いつきそうにもなかったので、「つまんなさそうなタイトルのほうが逆にインパクトに残るのでは?」と思い、結局変えませんでした。
でもその分、キャッチコピーはキャッチーに、「『悟り』なんてどうでもいい」といたしました。仏教者が書くマジメそうな仏教書に、そんなキャッチコピーが振られていれば、多くの方が「え!?」と思ってくださるのではと思い、このようなものにいたしました。しかし、キャッチコピーが印象に残るものであればあるほどに、高まった期待を裏切る可能性が上がることも事実です。ですので、「こういうキャッチコピーをつけるからには、ご期待に添えられるだけの内容でなければならんのだ」という風に、自分に鞭打つという意味もここに籠めています。

このような書籍を作りたいのが私という人間なのですが、そんな私の自己紹介を遅まきながらさせてください。私は僧侶としては「宗純」と名乗っておりますが、俗名は「康(やすし)」と言いまして、京都市生まれ京都市育ちです。立命館には高校から通っておりまして、高校生のときには野球とラグビーをしておりました。大学にはエスカレーターで進み、修士までここにいたのですが、その頃には哲学専攻にではなく、教育人間学専攻に所属していました。
私の場合、今現在は南禅寺禅センターで坐禅指導に当たりながら、京都大学で哲学研究をしていますので、昔から哲学や宗教に関心があったのだろうと思われがちですが、そんなことはまったくありませんでした。小さい頃には御所を遊び場としてキリスト教系の幼稚園に通い、小学校に上がってからは下鴨神社で遊ぶという、宗教に囲まれた生活をしていたのにもかかわらず......いや、宗教に囲まれた生活をしていたからこそ、かえって宗教には何の関心も持てませんでした。だって、これだけ身近に宗教施設があるのに、神や仏なんか見たことないし、見たという人に会ったことさえない、そのうえ恩恵を受けた覚えもないとくれば、神や仏がいらっしゃるなどと言われても、全然実感が持てないんですもん(笑)。それで昔の私には、「宗教は妄想の気休めだ」くらいにしか思えませんでした。
哲学にしても同じことで、高校の倫理の授業で初めて哲学に少し触れたものの、そこで聞く哲学の内容は、机上の空論にしか思えませんでした。そのなかでも最もバカバカしく思えたのは、デカルトの「方法的懐疑」でした。だってそうでしょう?「すべてのものは疑わしい、この現実だって夢かもしれない」なんていう疑いを、本気で持ったわけですから。「そんなん言うたら日常生活何もできませんやん......ましてや野球なんか絶対できませんやん......」と思い、デカルトを「一番頭のおかしな奴」とみなしました(笑)。
そんな私がどうして出家したのかですが、当然ながらきっかけがあります。何か大きなきっかけがなければ、当時の私みたいな奴が出家なんてしないですよね(笑)。そのきっかけというのは、学部生当時に付き合っていた方との関係で、非常に悩んだことでした。ツイッターの質問箱で「恋愛したことありますか?」と聞かれたこともありますが、たしかに今の私だけ見れば、そんな疑問が湧き起こっても無理はないと思われます。でも私も普通の人間です、人並みに恋ぐらいしました。

私が中学生のときに、『オレンジデイズ』というドラマが流行り、あれを観た私は「大学生になったら僕もオレンジデイズを送るんだ!」と、期待に胸を膨らませました。そうしてとうとう大学に入り、夢を叶えるときが来ました。それで私は思ったんです、「まずは彼女を作ろう」と。なんと安直な発想でしょう(笑)。しかし当時の私は、本当にそんな風にしか思っていませんでした。それで、順調に彼女ができました。オレンジデイズの幕開けです(笑)。どこにでもいる大学生だったと思いますし、僕もそれを望んでいたので、本当に順風満帆でした。
そんな雲行きが変わったのは、一年生の夏休みでした。人間関係の深まりは、自分や相手の思わぬ面を発見することへとつながります。当時の私の場合で言えば、彼女の抱えていた苦しみが徐々に露わとなり、それに伴い、私のエゴの強さが現れ始めました。
そんななかでどうしてよいのか全然わからず、ただただうろたえるばかりでした。自分が苦しんでいるのならまだしも、苦しんでいるのは相手ですから、根本的には自分の努力ではどうしようもできません。でも何かせずにはいられない......。ここでジレンマが生まれます。
このジレンマのなかで私は、「自分が苦しむことよりも、大切にしたいと思う相手が苦しんでいる姿を見るほうがよほど辛い」ということを、身に染みる形で学びました。人生で最大の苦しみは、自分の感じるそれではなく、大切な誰かのそれに触れることだと思います。代わってあげられるものなら代わってあげたい。でもそれは絶対に叶わない。このような場面で私たちは、強い無力感に襲われるとともに、「他者が他者である」という事実、言い換えれば、「私は決して他者ではない」というものすごく当たり前の事実が、どれほど残酷なものであるかを思い知ります。私と他者とのあいだには、決して乗り越えることのできない果てしない断絶があるのです。
このように追いこまれて私は、あれだけバカにしていたはずの哲学や宗教へ向かいました。「優しいとはどういうことか」、「親切とは何なのか」が、まったくわからなくなったからです。自分では「良かれ」と思って親切のつもりでしたことが、ことごとく裏目に出続けて、逆に相手を傷つけるという経験を重ね続ければ、「オレンジデイズ」などとは言っていられなくなったわけです(笑)。

そこからはもう、いろんな本を読みました。様々な本に励ましてもらいましたが、そのなかでも特に私が大きな影響を受けたのは、西田幾多郎の『善の研究』でした。この本の最初の三行を読んだとき、どうしてなのかはまったくわからないのですが、「この本には宇宙の真理が書かれている!」と思いました。ヤバい奴ですよね(笑)。でもほんとにそう思ったんです。もちろん、一読してスッと内容が入ってきたわけではありません。わからないことはたくさんありました。しかし、わからないなりにも読み進めると、西田の唱える「神」や「宗教」についての論説が、感動とともに胸に染みこんできたんです。どうして感動したかと言えば、それまでは「妄想による気休め」としか思えなかった宗教や神が、西田の言説に触れることで、「現実の世界を語るもの」として私に飛びこんできたからです。本当に感動いたしました。
その日以来、私の夢は変わっていません。西田のように、人の心を強く打つような言説を、魂をこめて提示していくことが私の夢です。その夢に動かされながら、今日まで私は生きてきました。この夢を抱き始めたのは二十歳のときでしたが、今年で私も三十となります。この十年でも様々なことがありました。正直に言えば、この場では申せないような大きな事件もありましたし、悔しいことや情けなく思えたことも多々ありました。しかし、それらがようやく肥やしとなってくれたようで、最近やっと、人様が少し私の話に耳を貸してくださるようになりました。今こうしてふらっと様にてお話ができていることも、十年前の自分を思えば夢のようです。心からありがたく思っています。
茶菓円山様や兵衛様、本照寺様などと坐禅会を共催できたり、ふらっと様および京都大学生協ルネ様にて、坐禅会用に書いたエッセイを集めた本を販売していただけたりなどしていますのも、いろんな方が私のことを励まし、支えてくださったおかげです。とはいえども、私などはまだまだスタートラインに立ったにすぎないので、本当の恩返しはこれからです。皆様方のように、私の話にご興味を持ってくださる方々の存在を支えとし、精進していきたいと思います。この度はご清聴いただき、誠にありがとうございました。

質問コーナー

質問:大角さん、お久しぶりです。教育人間学専修の大学院生の○○です。ふらっとさんに「ふらっと」立ち寄ったら、大角さんののぼりが出ていましたので、それを見て参加を決めました。
ところで質問なのですが、私は今、学校で非常勤講師を勤めています。そのなかで、様々な生徒の悩みを聴くのですが、何も言ってあげられなかったり、何もしてあげられなかったり、あるいは逆に、何をやっても押しつけになりそうな気もして、どうしてよいのかわからなくなることが多々あります。そんなときどうすればよいと思われますか?

回答:お久しぶりです。よくぞご参加くださいました。お会いできてよかったです。
早速本題に入りますが、やはり「聴くこと」が一番大事なのではないでしょうか。人の悩みに触れますと、どうしても「何か言ってあげなきゃ」「やってあげなきゃ」という気持ちになります。そういった気持ち自体はとても大切だとは思うのですが、そのような気持ちだけで動いてしまうと、肝心要の相手の気持ちが置き去りにされることが多く、気持ちばかりが焦ってしまい、かえって惨事になることが多いです。ですので、「何かしてあげたい」という気持ちは持ちつつも、しかしそれにむやみに動かされることなく、まずはじっくりと落ち着いて、相手の話に耳を傾けるべきだと思います。耳を澄まし、相手がどのような見方をしておられるかをじっくり考えていくのなら、時が来ればおのずから、言葉や行動がよどみなくすっと出てくるということが起こってきます。その瞬間が自然と来るまで焦らないことが大切です。頭で考えだしたら本当にきりがありません。ただただ迷いが噴出するだけです。そういったときにこそ、心の働きに身を任せること、時間の流れを信頼することが重要となります。鳥が卵を温めるように、胸のなかでじっと問を温めることが大事なように思われます。

質問:今日はありがとうございました。とても面白く聴きました。しかしながら、自分の考えと大角さんの考えとは、少しちがうのかなとも思いました。
私の父親はDVを振う酒乱でした。私も昔は、そんな彼に寄り添う方向、愛する方向に行こうと思ったのですが、諦めて距離を置きました。そうするととても楽になり、そこで初めて自分のことが手につくようになりました。ですから、「他者のために」が第一でなくてもよい場面があるように私には思えます。この点に関してはどう思われますか?

回答:わざわざ遠方からありがとうございます。そしてとても鋭いご質問をくださったことに感謝いたします。
それはとても大切であり、かつ、難しい問題だと私も思います。たしかに、一見すると私の考えとあなたのそれとはちがうように見えますが、実は根柢は同じのように思われます。
かく言う私にも昔、酷い仕打ちをずっとしてくる方がいたのですが、私もなんとか「その方を愛そう」、「その方もきっと心の奥では自分を想ってくれてるはずだ」と考え続けました。そのように思っている間は、「自分が相手を理解できていないのでは」、「自分が成長しさえすれば、相手も変わってくれるのでは」と思っていましたので、どれだけ酷いことを言われても、根本的には自分を責めるばかりでした。とても苦しかったです。
しかし、禅宗の修行道場へ行き、頭がスッキリしたときにあらためて冷静に考えると、その方は私と話し合う気などさらさらなく、私をただただ利用し続けているだけであることに気がつきました。正直に言えば、心の底からショックでしたし、猛烈に怒りが湧いてきたのも事実です。しかしそれとともに、自分が本当になすべきことも見えてきましたし、そうするとおのずと、お腹の底から活力が湧いてまいりました。
話し合いを諦めることは、たしかに冷たく思えます。しかし悲しいことに、現時点ではどうあがいても絶対に耳を傾けない方はおられるのであって、その方を変えようと今の自分が働きかけることは、「自分は人を変えられる」という自惚れや、「相手が自分を想っていないという事実を認めたくない」という自己防衛の表れであったりもするわけです。そうするとそれは「相手をありのままに見ること」でもなければ、「相手のために働くこと」でもありません。
今の自分ができることにその都度全力を尽くすことこそ「他者のために働くこと」だと思いますし、相手の見方がどのようなものかをありのままに見ようとすることこそ「相手の話を聴くこと」であると思うので、あなたの取られた行動は、冷たいどころか非常に勇敢なものであり、他者へ向かった働きであると私には思われてなりません。

質問:坐禅は脚を組むことによってしかできませんか?

回答:よくぞお尋ねくださいました。私は、決められた型で坐ることだけが坐禅であるとは思っていません。坐禅とは、身体姿勢のことではなく、「生き方」のことだと思っています。「絶えず問う」という生き方を採ることこそ、「坐禅すること」だと言いたいのです。
「坐禅とは生き方のことであり、坐っているだけが坐禅ではない」という考えは、私だけの特殊な考えではなく、禅宗においては伝統的なものだとさえ思っています。白隠禅師は「せぬ時の坐禅」と仰いますし、一休禅師は「○○するな、坐禅せい」と連呼されます。「せぬ時の坐禅」とは、「坐禅していないときの坐禅」という意味ですが、文法的にのみ考えればこの言葉はまったく意味不明です。一休禅師にしてもそうで、料理や掃除などを放棄して、ただただ坐禅し続けることなどできません。だとすれば、これらの言葉を理解するには、「坐禅」というものを「坐り姿勢を取ること」とは異なる形で理解せねばならなくなります。
その理解の仕方には様々あると思いますが、私としては坐禅を「問うという生き方」だと理解してみたいです。時間の流れを信頼すること、心の働きに身を託すこと、このような姿勢の象徴として「坐禅」を理解したいのです。
だからこそ、必ずしも脚を組まなくても、坐禅は十分できると思います。いや、むしろ「脚を組んでいないときこそ重要だ」とさえ言えると思います。

質問:昔ラグビーをされていたとのことですが、今回のラグビーワールドカップを観てどう思われましたか?

回答:お寺にはテレビがございませんので、わざわざパブリックビューイングにまで出向いたりして必死で観戦しましたが、そこまでして観て本当によかったと思いました。ラグビーファンにしてみれば、日本が予選プールを全勝通過してベスト8にいくだなんて、それだけでも夢のようですのに、戦いぶりが戦績以上に見事だったので、心から感動いたしました。
ご存じのようにラグビーでは、国籍がたとえ日本でなくても日本代表の資格を得られます。今回のワールドカップでも、様々な人種や国籍の選手が、文字通り「ONE TEAM」となって戦っておられました。その姿を見ると、「国籍」や「人種」などというのは、なんてちっぽけなちがいなのかと思いました。日本という国は島国で、人種や血をすごく気にします。差別の罪深さがこれだけ声高に叫ばれている昨今でさえ、いまだに差別意識は根強いでしょう。ああいった姿を見ることで、少しでも差別意識がなくなっていけばいいなと考えさせられました。差別意識の薄まりは、日本文化の希薄化を意味するものではなく、日本文化の深まりを意味していくと思います。国際的に大きな意味を持ちうるような、深い大きな文化をこれから日本が築くには、差別意識の撤廃が必要だと思います。様々な文化との生きたつながりを通してでないと、新たなものは生まれません。その意味で、ラグビー日本代表の姿は、「これからの日本のあるべき形の象徴」と言えるのではないでしょうか。

質疑応答の後には、大角さんのエッセイ本を購入された方々に大角さんがサインを書き、和やかな空気でイベントが終了いたしました。聴きに来られていた居酒屋経営の方が、自身のお店での坐禅会開催依頼を大角さんにされるという場面もあり、これからの展開が楽しみです。大角さんの著書が世に出た際には、当店で出版記念イベントを開催しようという約束のもと、大角さんと別れました。再開の日を心待ちにしております。本日は本当にありがとうございました。