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投手の微笑み(後編)

著者:智東 与志文

「なんで、あそこで野球をすることになったんだ?」  典雄は、カウンターの隣に座る足立とグラスを重ねながら、聞いた。足立は、なにやら考えるように俯いていた。球場で遠くから見たときには気付かなかったが、彼にも、中年の影が忍び寄っているように感じられる。顎のラインなど、高校時代のそれとは似ても似つかない。だが、神経質なまでに整えられた爪が、彼が再びマウンドに登っていることを教えていた。
「プロ時代の先輩から、声、かけられたんですよ」そう言って、足立は細切れに話し始めた「半分コーチみたいな待遇だけど、お金をもらいながら野球をすることができるぞ、って言われて」
「………」
「迷ったんですよ。お金がもらえるって言ったって、収入は当然サラリーマン以下です。バカな話ですよ。ただ、なんだろう……やっぱりまた、野球をしたくなったんです。僕、サラリーマンをしながらも、どこかで野球を再開することばっか考えてましたから。おかげで仕事はろくにできませんでしたよ」
 そう言って足立は、含みのある小さな笑みをこぼした。典雄は、うん、と相槌を打つ。
「小さなリーグだけど、入って正解でした。若いやつらとやってると、高校時代を思い出せて悪くないです。それにあいつら、飲み込みがすごく早くて、教えたらどんどん上手くなっていくんですよ。もっとも、僕が教えた、なんて言えるような立場じゃないんですけどね。競争相手ですから。……でも、そうやって、僕と少しでも関わったやつらが一人でも多くプロへと登っていけたら、たぶんそれは、とても幸せなことなんだろうと、僕は思います」
「……うん、良かったな」
 典雄は、生返事をした。壁に黄ばんだポスターが貼られている小さな飲み屋に、客は二人の他に一人いるだけだ。
「どうしたんですか? もっと喜んでくださいよ。せっかく会えたんですから」
 酔いが回ったのか、足立がやや乱暴な言い方で言う。それにどう答えるべきか分からないまま、典雄は口を開いた。
「だが、俺が投手を続けろなんて言ったせいで、お前はプロを辞めることになったんじゃないのか? 俺は、お前がそのことで俺を恨めしく思っているんじゃないかと、ずっと考えていた」
 今度は典雄が俯く形になった。足立の目も、自然と遠くを見るようになる。
「それは……違いますよ、監督」やがて足立は、ゆっくりと言った「僕はあの時、球団の人から野手への転向を持ちかけられてたんですから」
 典雄は顔を上げて足立を見た。事情が飲み込めない。
「プロの方々は最初、僕を投手として使おうとしていました。当然ですね。でもやがて、彼らもそれが無理だって分かったんです。もちろん僕は、もっと早くそのことに気付いていました。でも、いざ他人から転向を持ちかけられると、僕は、自分の中に強い投手への執着があるのを感じました。思えば甲子園にいけたのも、プロには入れたのも、投手をやっていたおかげですからね。なんでしょう、投手としての自分を信じられなければ、自分が死んでしまうような気がしていたんですね、きっと」
「………」
「僕は、結局、監督に判断を任せることにしました」
「なぜ?」
「だって、その時の僕を一番良く知っていたのは、監督でしょう? 監督は、自分を信じろって言ってくれましたね。嬉しかったですよ。なにせ、他の人は皆――家族さえも――転向を薦めてましたから。だから、僕は、投手として野球を続けることを決めたんです」
「でも、お前は」典雄は、言わずにはいられなかった「俺の一言のせいで、プロ野球としての生活を棒に振ったんじゃないのか?」
 グラスを握り締める典雄の目は、充血さえしていた。こんな話を聞いていると、やりきれない気持ちになった。
「だから、そういうことじゃないんです。僕は結局、投手としてでないと生きていけない人間だったんですよ。監督は、そんな僕を理解してくれる唯一の人でした。監督が、僕に生き方を教えてくれたんですよ」
 足立は微笑を浮かべていた。
「だから、監督には感謝しています。恨めしく思っているなんて、とんでもない話です」

 次の日、典雄は再び球場のスタンドに腰掛けていた。明日は僕も登板しますから、と足立からチケットを渡されたのだ。昨日より天気のいい休日のはずなのだが、観客は昨日より少ない。
「それにしても、なぁ」
 足立が昨夜言っていたことは、本当なのだろうか。あれは、足立が自分を慰めようとして咄嗟についた嘘ではないのだろうか、と典雄は考えていた。彼には、プロで活躍できなかった無念さが残っているはずで、やはり、自らの決断を後悔しているのではないだろうか。
 試合は、6回に突入している。現在のスコアは4対4。ちょうど足立のチームが、ワンアウトランナー1、3塁のチャンスを無駄にしたところだった。足立が登板するなら……たぶんこの回からだろう、典雄は呟いた。するとウグイス嬢が、次のように告げた。
「……選手の交代をお知らせします。ピッチャー、西谷に変わりまして、足立。背番号、38」
 ベンチから足立が駆け出る。内野のラインを飛び越え、荒れたマウンドに立つ。典雄が見慣れていて、それでいて長い間忘れていた彼の姿が、そこにあった。投球練習に入った。彼は、昔より心持ち小さくなったフォームから、ボールを投じる。キレは、そこそこあるようにも見える。だが、細かいところはまだ分からない。
 投球練習はすぐに終わり、試合が始まる。打席に打者が入り、審判が捕手の後ろに立った。典雄は、サインを覗き込んでいる足立の顔を覗きこもうとして、あることに気付いた。
「あいつ……笑っているよ」
 足立は、微笑んでいた。それも、最高にすがすがしく。甲子園出場が決まった時だって、あんな顔はしなかったと思う。典雄には、彼がなぜそういているのかが、分からなかった。
 足立が振りかぶって……投げた。ゆるく、見ているほうがつんのめりそうになるスローカーブが、コーナーに決まった。足立は、さっきとは違う種類の笑みを浮かべていた。してやったり、という表情だった。
「まぁ、いいか」
 典雄は考えるのをやめた。足立はきっともう、大丈夫だ。
その代わりに、典雄は、心の中で呟いた。
「俺も、また始めようか、野球を」

 

 挿絵:美術研究部さん

 

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