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小雨坊

著者:小柳優斗

 雷鳴が轟く雨の激しい夜だった。何処に行っても雨音だけで、後は何も聞こえてこない。
  静寂なのか喧噪なのか分からない、そんな中を、一人の法師が足早に駆け抜けていた。
  辺り一面に靄のような暗闇が立ち込めており、一寸先すらも定かではないくらい、視界が悪かった。欝蒼と茂る樹々の間を、縫うようにして歩みを進めている男にとっては、この暗闇が命取りになりかねない脅威となる。彼が手に持つ小さな明かりだけが、唯一の光だった。男はその光を雨で消してしまわないようにと気を使いながら、それでも迅速に参道を歩き続けている。そろそろ丑の刻だろうか。男は一人だ。周囲には、誰もいない。
  此処、大峯山は大和国にある修験道の山である。一言に大峯山と言うと、大和の南に南北に連なる大峰山脈の通称であるが、狭義には吉野の山上ヶ岳を大峯山と呼んでいる。古来より修験道の根本道場として知られ、多くの修験者が登山する修行の場でもあった。故に今雨に打たれながら山中を進む男も修行者の筈なのだが、彼の身に纏う物は鈴掛、兜巾、法螺等と言った山伏の纏う其れとは何故か違っていた。僅かな光の中に現れているのは、藍一色で染めた衣のみである。下に白の脚絆も履いているらしいのだが、それにしても施しを乞う僧侶のような男の装いは、この山では異常だった。修業の場に托鉢衣など、場違いであるだけではない。自由の利かぬ其の風態で山中をうろつく事は、非常に危険である。
  大峯山――山上ヶ岳は女人禁制が堅く守られている、非常に厳格な山であり、それ故か山道も常に男坂であった。体力の限界を超えて歩くような熾烈な行を強いられるこの山において、あろうことかゆったりとした法衣で来るとは、わざわざ生き倒れに来たようにしか思えぬ蛮勇である。事実男の肩はがくりと下がっており、姿勢もやや前屈み気味だった。もう、体の中に力が殆ど残っていないのかも知れない。それでも、男は歩き続けている。
  男は、既に濡れ鼠だった。身に纏う藍染衣も、濡れたことでより一層深い藍――殆ど黒に近い色になっている。その所為か、男の姿は半分闇の中に溶け込んでいるようだった。
「――冷えて来たな」
  男の呟く声は、再び夜空に響く雷鳴に掻き消された。その顔は、笠を被っている所為で見えないが、その中では迷惑そうな、或いは不機嫌な顔をしているに違いない。
  そんな男を嘲笑うように、雨は治まるどころか逆に激しさを増して行く一方だった。山の澄み切った空気に氷の如く冷やされた雨粒が、男の体に止め処なく叩きつけられる。それが彼の体から体温を奪い、力を衰えさせ、命を削って行った。また暗闇に閉ざされた、果ての知れぬ参道を歩き続けることは男にとって体だけではなく、心も蝕まれる荒行だ。ぬばたまの宵に己一人――それを思うと、彼の胸は不安で苦しくなるのである。男が向う先は、大峯山の本堂らしいのだが、果たして其処まで無事に辿り着けるのか如何か、本人にも自信がない様子であった。さっき思わず呟いた一言にも、疲れと同時に諦めの色が濃く浮かんでいたのである。彼は手に持つ錫杖を、もはや杖の代用として使い、歩いていた。そうでもしないと、自重を支え切れないのだろう。断続的に漏れる息にも、喘ぎが混じる。
  次第に、彼の足元もふらつくようになって行った。一歩一歩前に足を踏み出す度に、左手に持つ灯火が大きく揺れるのである。その揺れの激しさに、火が掻き消えてしまいそうになることも、一度や二度ではなかった。歩く速さも、さっきから徐々に落ちる一方だ。もう男の体は、限界を超しているのかも知れない。彼は最後の命の炎を燃やし、山の中を歩き続けているのである。彼の心が切れれば、それは即ちこの山での生き倒れを意味する。
  そしてその時は、存外速くに訪れた。
  未だ険しい坂を上っている最中での事だった。足下に転がっていた大きな石に彼は気付くことが出来ず、踏み出した右足で知らぬ間に蹴躓いてしまったのである。草鞋と足袋を穿いてはいたが、そんなもので堅い石から足を守ることなど出来る筈もなく、彼の右足は石に勢い良くぶつかり、痛みでギャッと言う悲鳴が上がった。無論叫んだのは彼である。
  その拍子に、手から灯火が地面に落ちた。そしてその衝撃で火が、ふっと消えてしまったのである。男が気付くよりも先に、辺りに靄の如き暗闇が立ち込め、彼から視界を奪う。
  暗闇の中、男の呻き声だけが響いていた。

 


 

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