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小雨坊

著者:小柳優斗


「……冷えてきたな。女人結界門から、随分と歩いたものだ」
  指先に当たった水滴で、文作は初めて雨が降っていることを知った。水無月初め、少しずつ辺りが寒くなる未の刻のことである。隙間なく聳える大木の葉が、遥か頭上で重なり合って笠となっている為、今まで気がつかなかったが、その間を通り抜けて、柔らかな風と共に小雨が吹き込んでくる。文作は一度空を仰ぎ、顔に雨を当てた。眼が冴えた所で、再び歩き出す。険しく足場の悪い獣道だが、文作の足取りは軽く、しっかりしていた。
  鈴掛に兜金を頂き、法螺を腰に吊るす山伏の様相をしているが、文作は別に修験者ではない。故に此処大峯山に来た理由も、峰入りなどではなく、言うなればその逆である。
  彼が山伏に扮し、人の眼を憚ってまで此処に来た理由、それは人探し――五年前、同じ大峯山に峰入りしてから行方の知れなくなった友、治兵衛を連れ帰る為に他ならなかった。
  治兵衛何処に居やがる――歩みを進めながらも文作は目を閉じ、友の顔を思い浮かべる。
  治兵衛は寺の子だった。宗派や、何を崇拝しているのかなど、細かい所まで知っているわけではなかったが兎に角寺の子だった。それに対して、文作は漁師の家の子。将来それぞれ全く違う生き方をしていくことになる筈の二人は幼馴染で、非常に仲が良かったのである。まるで本当の兄弟のようであった。家の仕事に従事する前までは、二人は互いを名で呼び合い、日が暮れるまでいつも一緒に遊んでいた。親通しの親交が深かった故であろうか。成長しても二人の仲の良さは変わることなく、それぞれが家の仕事を引き継いでも、時に旧交を温めていた。ただ治兵衛が得度を済ませた後は、やはりお互いに忙しくなり、会う機会も少なくなっていった。
  大峯山に行くと治兵衛が言いだしたのは、いつ頃からだったろう、文作には確かな記憶はない。ただ唯一鮮明に覚えているのは、その決意を口にしたときの治平の凛とした、大人びた風貌だった。その頃の文作は、漁師になって間もない頃でまだ餓鬼と吹聴されるような青年であった。しかし治兵衛は文作とは違い、信仰心を持った為か非常に物静かで、青年というよりは、一人の大人へと急速に成長していた。快活に笑うことも少なくなり、酒を禁じ、肉を食うことを止めた所為で、骨太だった体つきも文作に比べ、どんどん華奢になっていった。尤も、それは文作が漁師の仕事を仕込まれ、堅が良くなったとも言えるのだが。文作と治兵衛との仲が疎遠になりつつあったのも、互いの心の成長が上手く噛み合わなかった故なのかも知れない。
  久しぶりに二人顔を合わせる時、治兵衛が文作を見る目は幼い頃から変わっていなかった。しかし、自分より大人になって行く治兵衛に、文作は何か切なく感慨深いものを覚えたものである。だから治兵衛から大峰山に行くと言われた時、文作は何とも言えない寂しい思いに捉われた。治兵衛はすぐ帰ってくると笑って言う。確かにすぐ帰っては来るだろう。だが帰ってきた時の治兵衛は、自分が知っている治兵衛とはもう違うような気がした。何処かへいって学ぶ、学ぶ前の自分よりも一つ、新しくなって帰ってくる。治兵衛は一つ決めたことはとことんやり抜く性質である。文作はそれが心配だったのだ。ただでさえこの数年間で治兵衛は変わった。それがこの経験を経て、さらに変わってしまったら――文作はそう思うと気が沈んだ。人は否応なしにでも成長して行くものだということを、彼はまだ良く理解していなかったのだ。
  だが文作は何も言えず、治兵衛を見送る形となった。治兵衛は数日で帰って来る筈だった。二人の村から大峰山まで歩いて三日。二週間もあれば治兵衛は帰ってくる。文作は仕事をしながら、少し複雑な思いで指折り治兵衛の帰る日を待ち続けた。帰ってくるのは楽しみだが、変わってしまった治兵衛を見るのは辛い。葛藤の中、文作は二週間を過ごした。
  だが、山は治兵衛を帰してくれなかった。治兵衛は大峰山に行ったまま、文作達の待つ村に帰ってくることはなかったのである。親たちは大騒ぎして、大峰山まで出向いた。しかし、何の沙汰もなかった。文作も行こうと思ったのだが、その頃暮らしが傾いてきており、とても旅に出られるような状態ではなかった。治兵衛の消息を案じながらも、文作は稼業に専念し、人並み以上の苦労の日々を送るより他なかったのである。そして、五年もの歳月が過ぎた。

挿絵:美術研究部さん

 

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